死んだ魚の目をしたおじさん。
2021.08.23(月) vol.43
豆腐に海苔と鰹節とオクラをのせたやつ。
深そうで深くない話。
電車でスマホをいじらず、一点を見つめてただ立っているおじさま。
これにずっと疑問を持っていた。
仕事のメール返信は?インスタのストーリー見ないの?株価チェックは?本読もう?
その何もしてない時間無駄じゃない?
ただ、最近あることに気づいた。
電車でぼーっとしている時間が増えてきている。
ぼーっとしている方がが楽で、それに慣れてしまっている。
もちろん今やるべきタスクがある時はそれをするのだが、電子書籍やインスタのストーリーよりも、ぼーっとするという選択肢を無意識に選んでいる。
元来私は合理的、悪く言うとケチな人間のはず。
コンビニスイーツはほとんど買わないし、無駄な残業はしない。
その理論に基づくと、電車でぼーっとするなんてことは無駄の極みだ。
その時間で田山花袋が5ページでも読めたかもしれないし、ストーリーの友人を見て懐かしさに浸れたかもしれない。
でも、それすらも無駄なのかもしれない。
田山花袋の性癖を知らずとも給料は変わらず貰えるし、ストーリーに敏感である必要もない年齢だ。
シャワーを浴びている時もタバコを吸っている時も、同じである。
シャンプーで泡立たないスポンジを作る事が増えたし、換気扇の下をよく掃除するようになった。
修行僧と正反対の世界観にいる人間でも悟りは開けるのかもしれない。
じゃあ、そこに残る寂しさや切なさって、何なのか。
無駄が省けて良いのかと思いきや、全く清々しくない。
ぼーっとしている人に羨望の目を向けたことなど、ない。
人は年齢に比例して、無駄のエリアが広がっていく。
正確には、無駄と「認知する」エリア。
それは、退屈な人への変化に繋がる。
(退屈って悪いイメージですが、良い悪いではなくニュアンスで読んで下さい。)
赤子が何でも口に入れたがるのは、目に映る全てに価値を見出しているためだ。
退屈が良い悪いといった無粋な話ではない。
その退屈を認識出来るかどうか。
心ともなく退屈に慣れてしまう習慣が最も恐ろしい。
「人生に無駄なことなどない」
こんな言葉を堂々と語れる程出来た人間ではないが、あながち間違ってはないのかと。
クソみたいな雑用まがいの仕事を続けられる奴が、結局トップ営業マンになる。
なんてのはよく聞く話で。
だから、明日も稲中卓球部を読んで出勤するよ。私は。
豆腐に海苔と鰹節とオクラをのせたやつ。